10代で口ずさんだ曲

中学生の頃、偶然ラジオで聴いたBUSTEDというイギリスのポップバンドに夢中になった。

その曲はちょうど発売される寸前のデビューシングルで、キャッチーでポップで、英語だから何言ってるんだかわからなかったんだけど、なんとなく切ないところもあって、歌う男の子の声がかすれているのに合っていてきれいで、発売日にお小遣いをもって急いでアルバムを買いに行った。アルバムの曲どれもこれも大好きで、一緒に歌いたくて一生懸命英語の歌詞カードを追った。BUSTEDが何を歌っているのか知りたくて、辞書を引いて必死で訳した。来日するというと学校を休んで友達とライブに行った。3人にとったら、知らない国の知らないまちの小さなホール。そんなところで、気取らないいつものTシャツとジーンズというような格好で、なんって楽しそうに、ギターを弾きながら歌うんだろう、と思った。声が枯れるまで歌って飛び跳ねながら指はするすると自然に動いて、サッカー選手がボールを転がすように、本当にギターが体の一部みたいで、自由で、とてもうらやましかった。比喩じゃなく、ギターを抱えて跳ねた拍子に飛び散る汗が、スポットライトできらきら輝いた。私も何かを自由に操って、こんな風に楽しそうに生きたいなと思った。

だからデビューして3年で解散してしまったときは、本当に悲しかった。朝から晩までBUSTEDを聴いていたし、2枚のアルバムの曲は、どれも歌詞を見ずに歌えるようになった。気分の良い夜もつらいことがあった日も、BUSTEDを歌って過ごした。その後二十歳の頃別のイギリスのバンドに夢中になって以来、なんとなく音楽から遠ざかってしまって、なんでも聴くけどなんにも聴いていない間に、ipodも壊れてしまいいよいよ音楽というものを聞かなくなっていた。それが最近店ができ、一人でいる時間が長くなり、気が向くとなんとなく音楽をかけるようになった。ふと、BUSTEDが聴きたくなった。CDは実家に置いてきてしまったし、youtubeで検索してみると、なんと2016年に再結成していた。再結成ツアーの動画を見てみると、みんな変わってないけど大人になってカッコよくなって、歌も演奏も上手になっていてうれしかった。それよりもうれしかったのは、昔の曲を、今のBUSTEDが演奏していたことだった。どの歌も、昨日までずっと聞いていたみたいに、一緒に歌えた。SONYのウォークマンの広告を思い出した。「10代で口ずさんだ歌を人は一生、口ずさむ。」

「歌え、10代。歌えば、ココロがすっきりする。歌え、10代。歌詞の中には、恋のヒントもある。歌え、10代。大声を出せば、お腹もすく。歌え、10代。きみが隣にいることを、あの人に伝えられる。歌え、10代。歌う口もとに、ため息をつくヒマなんかない。歌え、10代。二度とない今日を、深く深く記憶できる。
歌えるウォークマン。新しいウォークマン。歌に合わせて、歌詞が見える。歌え10代。」

このコピーを聞いたときたしか私は大学生で、良いコピーだと思って忘れられなかったけど、それ以上のものではなかった。今30代になって、すっかり大人になって、それでも自分の口からするすると紡がれるBUSTEDを聞いていて、はっとした。このコピーは、今10代の「きみ」じゃなくて、かつて10代だった「きみ」に、向けられた言葉なのかもしれない。一生口ずさめる歌に出会えるのは、たぶん10代だ。だから今、たくさん良い曲を聴いて、たくさん歌って、きみの人生の傍に、ずっと音楽があるように。そう願う10代の子供をもつ親に、むけられた言葉なのかもしれないと思った。(まぁウォークマン、10代にはなかなか高価な買い物だもんね)

私にBUSTEDがあるように、きっと親には親の、10代に口ずさんだ歌があって、祖父母には祖父母の、10代に口ずさんだ歌がある。私はその歌を知らない。だけどそんなことは問題じゃない。

個々の歌ではない、「10代で口ずさんだ歌を人は一生、口ずさむ」という行為。時代によって、レコードだったりラジオだったり、ipodだったりyoutubeだったりするけれど、そんなことに関係なく、何世代にもわたって繰り返されていく行為。“受け継ぐ”とは、そういうことなのかもしれない。行為でしかないのかもしれない。

モノや形のあるものは、そのまま受け継がれているように見えて、時代や世代がかわるにつれてとらえ方や意味が変わり、“がわ”だけのものになっていく。youtubeを再生しながら今どきの歌を口ずさむ若者を、大人はきっと、馬鹿にする。だけどその行為は、自分が10代の頃にした、かけがえのない行為に他ならない。

いけられた花ではない。花は枯れていく。枯れてしまう前に、少しでも多くの人が喜んでくれたらそれは幸運。そうじゃなくて、大切なのは、花をいけるという行為。この国で、100年前も誰かが花をいけていたことと、100年後も、誰かが花をいけているということ。

 

 

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