花好きにあげる花(日本のおもてなし論)

花を好きな人に花をプレゼントしなければならないことが、たまにある。
店にもときどき、「いつもお家にお花を飾っている人にお花をあげたいんです」、という人が来る。

昔は本当に困ったけれど、今は答えを用意してある。それは、「今、この時期にしかない花」。

 

去年の暮れ、カナダから突然メールが来た。それは英語がベラベラってわけでもない私にも、とても丁寧に言葉を選んで書かれた文章だということがわかった。日本料理に関するブログを運営していて、そこにいけ花を紹介する文章を掲載したいので、どうか私に文章を書いてくれないか、という内容だった。リンクの貼られたブログを見てみると、それは1枚の写真もない、白い背景にただ英語の文章が書かれたページだった。1つの投稿に1レストラン(料亭)、タイトルは店の名前。多いときは1つの文章に何度も画面をスクロールしなければならないほど、その店の料理やサービスについて、丁寧に丁寧に書かれていた。会って話してわかったのだけれど、日本の料理は美しいけれど、その美しい見た目では本当に日本の料理の美しさはわからない、と言われた。私はその通りだと言った。ぜひ文章を書かせていただきたい、と。

外国の文化を理解することは自国の文化を理解することだというけれど、本当にその通りだと思うし、また外国の方に自国の文化を説明しようとすると、ぼんやりしていた自国の文化の輪郭がはっきりする。サボワイエ氏と話しながらいけ花についての文章を書くことで、私は自分の思ういけ花が随分はっきりしたように思う。

“日本のクリエイターたちは、いつもどうやって新しい方法で季節感を表現するか考えている”。そう書いた。最高級のレストランは必ずその季節にしか食べることのできない素材を使い、器やその他のアイテム、新しい技術を使って季節感をしつらえる。フォーマルな手紙は必ず時候の挨拶とともに始める。過ぎて行く時間、季節。今あなたと共にしているこの季節を、最大限に表現すること。この国では、永遠ではなく一瞬にこそ価値がある。イギリス人はいつも天気の話をするという。「暑くなった」「もう夏やねえ」。私たちは知らないうちに、いつも季節の話をしている。この国で季節とは、誰にとっても失礼のない話であり、季節感の表現こそが、最高のおもてなしなのだ。(と、少なくとも私は思っていることに、サボワイエ氏に必死で説明する中で気が付いた)

料理や手紙だけではない。着物、音楽、舞、絵、その他すべての日本の美しいものが、季節に支配されている。花はそういう日本の美しいものの1つであると同時に、大きく違うところがある。それは他のすべての文化が“季節の表現”であるのに対し、花は、季節そのものだということである。季節季節と言うけれど、それって一体どこにあるの?季節は、地球の自転によって日照時間と温度が少しずつ変化していくという地理的な現象にすぎない。その地理的な変化を、花は私たちに知らせてくれる。日が長くなること、光が強くなること、暖かくなること寒くなること。その中で咲いていく花と散って行く花があること。花は季節である。そして季節は日本のすべてである。だから私たちは、花をいけることをやめてはいけない。

手に入る花がどんどん増えていく現代。それはとても幸運なことだけれど、私たちはその中で、絶対に季節を見失ってはいけない。日本にもともとある花はその季節感を削がれないように提供し、外国の花にもちゃんと日本なりの季節感を与えなければならない。そうしなければ、カタカナの名前とカワイイ見た目だけでは、多分100年後その花は日本からなくなってしまう。
そういうわけで私には毎年、「花を好きな人に花をプレゼントしなければならないこと」がある。それはいけ花の師匠の、お誕生日会のプレゼント。去年までは、どの花にするかすごく迷った。でも今年はもう迷わなかった。今年の会は4月の終わり。優しいピンクが似合う師匠に贈ることができる花は、多分、芍薬しかない。

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Bruno Savoie 氏のブログ>http://www.counterseat.com/

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