“言語論的転回”的 花と恋

2019年04月12日

「言語論的転回」という言葉を、今でもときどき思い出す。
高卒で花屋で働いている、あるいは芸大出身かとときどき聞かれるのだけれど、私は2010年に大阪の関西大学の社会学部を卒業した。そこでゼミの担当教員が、大部屋の授業でしきりに言っていた「言語論的転回」といういわば社会学用語を、今でもときどき思い出す。というか、最近よく思い出す。

私の理解で簡単に説明すると言語論的転回とは、私たちは、意識や現実を言葉で表現していると思いがちだけれど、実は言葉が意識や現実を作っている、という考え方だ。桜がきれいに咲いているという現実があるのではなくて、他の植物から「桜」という言葉でその植物を分け、「きれい」という言葉で他の状態と区別して、初めてその現実が存在する、というものだ。さらにこれが一歩進むと「メディア論的転回」になる(社会学部な上にマスメディア専攻だったんです、花屋で華道家なんですが)。それは、言葉が現実を作り→そして、メディアがコミュニケーションを作る、というもの。「桜がきれいに咲いてるよ」とラインする、Facebookにアップする、それは、桜がきれに咲いているという現実がありそれを伝えようとすることでコミュニケーションが生まれているのではなく、ラインやFacebookというメディアが存在することによって、「桜がきれい」と伝えるコミュニケーションが発生する、というもの(だったと思う)。

恋をすると世界が美しくなる、ということがあると思う。私があなたが、恋をしてようがしていまいが、現実の世界は変わらない。朝が来て夜になり、花が咲いて散って行く。ではなぜ恋をすると、世界が美しくなるのだろう。それはたぶん、言語論的転回なのではないだろうか。言葉やメディアは、それを共有する人たちがいて初めて成り立つ。植物の中のある種が、ある気候の条件の下繁殖の手順を踏む。地球上で起こっている出来事の、ほんの一片。誰かに恋をすると、そんな日々のなんでもないことの中から、伝えたい美しさを探し出すんじゃないかと思う。

最近ふとそんなことを考えていると、思い浮かんだのが和歌だった。大好きで、いろんなところで引用しまくりのドナルド・キーン先生の『日本文学史』一巻の序文から。「日本の詩歌はほとんどが抒情歌に限られ、そこで取り上げられる特徴的な主題は、季節における花鳥風月の変化と、恋の悲しみや(数はずっと少ないが)喜びである」。
伝えたい美しさがあるんじゃない。伝えたい人がいるから、人は言葉を紡ぐ。そんなことない、と批判されると思う、とくに芸術家の方なんかに。この世には絶対的な美や意識があるのだと。でも私はその社会学的な現実こそ、美しいと思う。恋が言葉を生み、言葉が世界を美しくする。

花で生きていくと決めたのが2年生のときで、一瞬大学を辞めようかとも思ったけれど、そこで習ったことが今でも花を続ける糧になっていると思う。「社会学的な花屋になりたい」。いつか一緒に社会学部を卒業した友人に言うと、彼女は「いいんちゃう、西村に合ってるわ」と言って笑った。