祇園祭り都町踊り高瀬川舟運『拾遺都名所図会』

風情のない、うるさいまち。きっと多くの人が、「木屋町」のことを、そう思っているのではないでしょうか。
最寄駅は、京都の中心・四条河原町。私の店のある京都・木屋町通は、居酒屋やバーやクラブが立ち並ぶ、いわゆる繁華街。開けっ放しの店から聞こえるポップソングやダンスミュージックに、お酒を飲んで良い気分のみなさんは声も大きめ。週末は明け方までにぎやかで、石畳に町家が並んで、からんころんと下駄の音、みたいな風情ある京都の町並みとは、ちょっと言えません。

京都の人でさえこの通りを単なる繁華街だと思っていますが、実は木屋町には、江戸時代以降、京都の発展の礎となった、おもしろい歴史があるのです。その鍵は、今でも残っている「高瀬川」。繁華街のど真ん中を、知らぬ顔でさらさらと流れます。鴨川から取水した流れは美しく、夏になると蛍が飛ぶほど。川沿いに植えられた桜はちょっとした名所になっており、満開の花が川を覆う景色はちょっとした名所になっています。この、繁華街に似合わない、狭く浅く美しい川は、ちょうど江戸時代が始まる頃、人々の手によって作られた運河でした。

現在京都の中心は、木屋町のすぐ近くの四条河原町ですが、昔は天皇が住んでおられた御所と、御所のある室町通(その後烏丸通)を中心にまちが発展していました。唐の都をモデルにその場所を選ばれた京の都は、東の端に川が流れるように設計されました。鴨川と当時は鴨川の河原だった現在の先斗町・木屋町・河原町エリアは、意図的にまちの端だったのです。

16世紀の京都は、近代の都として発展していく中で、お寺や家を建てるための木材の需要が高まっていました。京都は周囲を山に囲まれているので、伐った木はそのまままちへ運べば良いように思えますが、柱や梁を含めほとんどすべてを木を材料に建てる日本の家に必要な木材の長さは4.2メートルです。山から直接運ぶことは不可能でした。そこで考案されたのが、山を流れる川に沿って一旦まちの南に集め、そこから市中を流れる川(鴨川)
を遡って、まちの中に引き入れるという方法でした。この方法を実践し豊臣秀吉の命による巨大な大仏殿の建設を成功させたのが、後に「高瀬川の開削者」として歴史に名を残す豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)でした。

しかし高低差のある京都を流れる鴨川は、それほど優しくありません。人の力だけで流れに逆らいながら木材を運び、安定的な供給を実現することは困難でした。そこで彼は、当時は広大に広がっていた鴨川の河原の中に、運河を敷くという大胆な計画を実行します。2年間の工事の後、運河は完成しました。鴨川から取水された浅い運河で思い荷物を運ぼうとすると、普通の舟では底が擦ってしまうので、「高瀬舟」という底の平らな細長い舟が起用されました。そのことから運河は「高瀬川」と呼ばれるようになったそうです。高瀬川によって安定的に材木が運ばれるようになると、川に面して材木問屋や材木商が軒を連ねました。建築用の木材だけでなく、日々の燃料としても木は必需品だったので、まちは賑わっていきました。最盛期には約700人の曳き子と160艘の高瀬舟を有したといわれます。高瀬川に沿った通りは、やがて「木屋町」と呼ばれるようになりました。江戸時代以前、都の人々の暮らしといえば、地面に屋根だけ立てた小屋のようなものがほとんどでしたが、まち自体の発展に高瀬川の寄与も加わり、町人たちが現代人が思うような町屋に暮らせるようになっていったのです。お茶もお花も、日本の文化は、座敷、つまり建物がなければ成立しません。たくさんの人が町屋に住めるようになったということは、生活が安定しただけでなく、日本文化の担い手になったのです。

新しくできた運河だけでなく、もともと東海道の終点・三条大橋が近くにあったので、木屋町は交通の要所としていっそう賑わっていくのでした。商売や旅人が増えると、料理屋さんなどの店も増えて行きました。飲食の店は表通りでビジネスの通り・木屋町ではなく、通りの裏手の、鴨川との間の空間に発展していきました。そこでは料理だけでなくさらなる遊興として、芸舞妓さんの文化も発展していくのでした。「先斗町」と呼ばれるようになったそのまちは、今でも芸舞妓さんの文化が残る「花街」として有名です。
20世紀の初め、車や鉄道での運搬が主流になった頃、高瀬川の運河としての歴史は終わります。材木を扱う店はやがてなくなり、酒屋や米屋など日用品を扱う店が立ち並ぶ時代を経て、飲食店が増えていきました。木屋町エリアの町名は、半分ほどは「材木町」「下樵木町」「石屋町」など材木や建設資材に関係した名前がつけられ、残りの半分ほどは「紙屋町」や「鍋屋町」など日用品に関連した名前がつけられています。そして材木と関係がなくなった今でも、通りは「木屋町」と呼ばれ続け、毎日たくさんの人が訪れる、まちの中心であり続けています。「うるさい繁華街」、確かにそうかもしれません。しかしそれは、木屋町が古くならず生きたまちとして発展し続けている結果なのです。

京都を観光するというと、つい有名な神社やお寺などを訪れることばかりに目が向きます。しかし長年都だったこのまちでは、木屋町のような一見すると何でもない小さな通りにもおもしろい歴史があります。私は2015年から「高瀬川会議」という、木屋町の三条から四条の間のエリア(京都では「立誠学区」と呼ばれます)を活動拠点としているボランティア団体の代表をさせていただいております。高瀬川会議は、運河だった頃使われていた「高瀬舟」を模した舟を持った団体です。代表的な活動は、年に2回行われる地域のお祭りに合わせた「舟あそび」で、京都市の許可を得て川の中に舟を浮かべ、実際に人々に乗っていただきます。高瀬川は、木屋町の歴史と江戸時代以降の京都の発展を支えた大切な財産です。みなさまにその歴史を知って、「飲みに行く」以上の楽しみを、木屋町で見つけてほしいのです。