極楽で「笑い」は生まれない ~新年のご挨拶にかえて~
二十四節気はもうすぐ24番目の大寒を迎え、一巡する。
大学2年生のとき花屋でアルバイトを初めて以来、多くの花店にとってかきいれ時の年末は、家でゆっくり過ごしたことがなかった。だからすっかり年末の風物詩になった『M1グランプリ』も、最後に見たのはチュートリアルが優勝した回だったのではないかと思う。
昨年は店を移転して、住まいもその上の階に移した。日中はさすがにいけこみに回って忙しくさせていただいたけれど、夜はちょっとのんびり。いつもなら忘年会などで飲みに来た帰りにちょっとしたお正月のお花やお飾りを買ってくださる方がたくさんいたのだけれど、新型コロナウイルスの影響でまちに繰り出す人が少なく、夜は「家」でのんびり過ごす時間もあった。
久しぶりに見るM1。優勝したマヂカル・ラブリーの決勝戦のネタは、電車で吊り革を持ちたくないというボケが、ほとんどしゃべりもせず電車らしき乗り物の中で面白おかしく暴れ回るという、まぁいわばそれだけの構成だったのだけれど、涙が出るほど笑った。秀逸だと思ったのは、散々暴れてのたうち回ったボケ・野田クリスタルが最後に放った言葉「お茶の水~、お茶の水~」、「中央線そんなんじゃねぇよ」とツッコミ。それまでの大袈裟すぎる動きとあまりにもギャップのある言葉でありながら、でもなんとなくみんな知っていた予定調和。オチだけ見れば、どのネタよりも漫才らしく、古典的で教科書通りのものだった。そして3分50秒の滅茶苦茶の後で、そのシンプルさは際立った。あとから批判が出たという「こんなん漫才ちゃう」という意見もよくわかるのだけれど、安定した上手なしゃべくりは、THE MANZAIで見ればいい。M1は、ただおもしろいネタを披露する場所じゃない。その年の日本一の漫才師を決める舞台だ。「一体何してくれるんやろう!?」。今までになかった期待感とそれを裏切らない破壊力は、M1グランプリにふさわしかったように思う。
賞金一千万円の巨大なボードを抱えた野田は、「最下位なっても優勝することあるんで、みんな諦めんといてください!」とカメラに向かって叫んだ、涙を流しながら。”マヂラブ”は、前回決勝戦に出場したとき上沼恵美子に大批判を受け最下位。からの優勝だったのだそうだ。「人生懸かってるんやなぁ」と思った。モテたい、金持ちになりたい、有名になりたい。辛い、悔しい、見返したい。色んな想いと欲望を抱えて、一年間必死で「笑い」を作る。審査員の中川家・礼二はちっとも低い点数をつけない。「え、ぜんぜんおもしろくなかったのに」と思うようなネタにも一人だけ高い点数をつけ、コメントを求められると必ず前向きな言葉をかける。たぶん、どんなにおもしろくないネタだとしても、その4分間のために、2人の漫才師がどれだけ努力したのかわかってしまうから、低い点数をつけられないのだろうと思う。中川家得意の京阪電車のネタを見るといつも思う。貧乏な家に生まれた幼い兄弟が、ゲームも買ってもらえず近所で見つけた小さな可笑しい風景。「車掌さんて変なしゃべり方!」、「なんでこの2つの駅こんな近いん!?」。辛い日々の中で見つけた小さな笑いを、何十にも何倍にも膨らませて、日本中を笑わせるネタが生まれた。
さて「大寒」は、1月20日~2月3日頃、この島が一年で最も寒い時期のことをさす。「冷ゆることの至りて甚だしきときなれば也」。極限にまで至った寒さや暗さ(「陰」という)はどこへ行くのか?明るさと暖かさ(すなわち「陽」)へ向かって行く。だから人々はその日を祝う。立春の前日であり、大寒の最後の日を「節分」として。有名な太極図は静止画ではないのである。極まった陰は必ず陽の始まりであり、陽が極まればまた陰に転ずる。光の兆しは闇の果てにしかなく、その反対もまた然り。人も自然も、その両方によって成り立っているというのが、この図の示すところである。きっと極楽では、本当の「笑い」は生まれないのだ。いつも暖かくておいしいフルーツが勝手になって、辛いことも苦しいこともない世界なら、きっと人は、こんなに必死に人生懸けて、笑いを求めたりしなかっただろう。
このブログは一応華道家のブログなので、最後は一応、そういう話でおとしたい。暗い世の中になってしまいましたが、陽に転じる日を待ちましょう。予定調和でしたでしょうか。
明けましておめでとうございます。
本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
華道家 西村良子
※文中に登場する芸人さんの敬称は略させていただいておりますが、大尊敬です。