連載「いけ花とは何か」1 ~余白と対比/花だけでは完成しない花の作品~

いけ花の特徴を説明するときに、別の国の花の文化と比べるという方法がある。
ラインをいかす、花を少ししか使わない(量も種類も)、日本の花(枝もの)を使う、など。これらは「いけ花とは?」という文章によく出てくるもので、実際にいけ花の作品はそうなっている場合が多いし、間違ってはいない。しかしでは、ラインをいかしたいけ方をしていれば、それはいけ花なのだろうか?日本の花を使っていれば(例えば桜とか)、いけ花なのだろうか?ではラインをいかしたフラワーアレンジメントや、桜を使ったアレンジメントは?
ラインをいかす、花を少ししか使わない、日本の花を使う。これらは確かに多くのいけ花作品の特徴を説明してはいるけれど、「いけ花とは何か」という問いの答えにはなっていない。いけ花固有の目的を果たそうとした結果、そういう表現になることが多い、のだ。いけ花が、他の国の花の文化と大きく異なる点は、見た目ではなくその目的と手法にある。

フラワーアレンジメントの起源は、中世オランダのフランドル花卉画といわれている。「17世紀のオランダおよびフランドルの画家の美しくしばしば豪華な花卉画は、その後ずっとさまざまな花をまとめる際の手本とされてきた」。それまで、例えばイタリアのルネサンス絵画にも花はたくさん登場してきたけれど、多くの場合、室内装飾の一部としてか、宗教的な意味の象徴として描かれてきた。フランドルの花卉画の特徴は、いけられた花が主題そのものになっているところにある。キャンバスの中心に花瓶に入った花が描かれ、キャンバスはその花で埋め尽くされる。もう一つの特徴は、構成やデザインに非情なこだわりが見える点である。多くの作品には、同じ季節には咲かない花が一緒に花瓶に入れられている。ファン・ハイムスという画家の作品からは「今日フラワー・アレンジメントで教えられる基本のすべてを学ぶことができる」。フラワーアレンジメントとは、花ごとの大きさや形、色を基に配置をし、そのデザイン性を高めた芸術作品である。その目的は、花を使って、美しい作品を作り上げることにある。どのような花の文化でもそれこそが目的のように思えるが、いけ花の目的はそうではない。いけ花の文化において花をいける目的は、いけた「空間」を美しく見せることにある。

いけ花を飾る空間で、最もわかりやすいのは床の間である。床の間とは、座敷の一角をへこませて、書や絵や装飾品を飾る空間である。座敷とは、いわば何もない畳の部屋である。居間や寝室のように特定の目的のために普段から使われているわけではなく、お客様が来られたときのために、何もないままでとっておかれる部屋が、座敷である。お客様と目的に応じて机を出したりお布団を敷いたりする。旅館を思い出すとわかりやすいかもしれない。そもそも何もない部屋にある、もう一段何もない空間。いけ花は、そこに置かれる。この場所に花を置く目的に、まずは季節の表現がある。この国では昔から、季節を表現することは相手への大きなもてなしだった(それはまた別稿で)。だからもしいける場所が日本なら、日本の季節の花を使うことが多くなるのは当然である。もう一つ重要なのが、余白の強調である。

「この「余白」という言葉は、英語やフランス語には訳しにくい。西洋の油絵では、風景画でも静物画でも、画面は隅々まで塗られるのが本来であり、何も描かれていない部分があるとすれば、それは単に未完成に過ぎないからである」。日本画には、しばしば余白が用いられる。人でも花でも昆虫でも、対象物だけが描かれて、あとは地のままということがよくある。日本の画家は、主題のみに注目し、不必要と思われる要素をばっさりと排除する傾向にある。千利休が庭で育てていた朝顔が見事だというので秀吉が出向くと、利休は庭の朝顔をばっさり切ってしまっていた。そして茶室に一輪だけの朝顔をいけていた、という話はあまりにも有名だ。不在の空間(余白)が、存在を際立たせる。そして、その反対もある。

「室内の情景を表したものとしては、これも江戸期に好んで描かれた『誰か袖屏風』がある。これは衣桁にかけられた衣装を中心の主題をしたものだが(中略)、時には画面に双六盤やお盆の湯呑みのセットなど、人間の存在を暗示する小道具が描かれていることもあるが、登場人物の姿も消されてしまっている」。持ち物の存在が、描かれていないはずの持ち主の姿を強調する。和歌でも同じ手法が見られる。「駒とめて袖うちはらふ陰もなし佐野のわたりの雪の夕暮」(『新古今和歌集』藤原定家)。この歌が表現している景色は、ただただ、雪が降っていて物静かな秋の夕暮である。にもかかわらず、歌の半分を使って、実際にはなかった、馬に乗っている貴公子が袖の雪を払う躍動感のある景色を並べ、いっそう静けさを際立たせている。そのイメージは、ただ単に雪が降っているだけの景色の描写だけでは持ちえない、一層の寂しさや静けさの表現を可能にする。存在によって不在を表現する。動によって静を際立たせる。「際立たせる」や「映える」などという言葉もまた、「余白」と同じように外国語に訳するのが難しい。聚楽の壁に、カキツバタの紺色と葉の緑は最高に映える。そこには「カキツバタが美しい」以上の美がある。

あらゆる日本の文化は、それ単体で美しいようにはできていない。いけ花では、たしかにわずか2種類ほどの花や枝を、ラインをいかしていけられているものが多い。それは、近代以降いけ花が床の間にいけられることが圧倒的に多かったからだ。わずか一畳ほどの空間の中で花と余白を調整し合って、お互いの美しさを引き立たせようとすれば、必然花の量は少なくなる。2種類以上を使うなら、力強い枝のものと、可憐な花を、色も補色か反対色を。そうやって小さな対比を重ねて、座敷という空間そのものを、季節感のある美しい空間に仕上げる。だから、膨大な余白のある空間にいけるなら花はたくさん使うこともあるし、ラインが際立たないのであればある程度面を作ることだってある。暴力的な言い方をすれば、どんなに形ばかり古典いけ花をいけても、ふさわしい空間に飾るのでなければ、それは「古典の模倣」であって「いけ花」ではない(もちろん古典を学ぶことの意義は承知した上で)。

いけ花とは日本風の美しい花の作品ではなく、花と周辺の物(器や、掛け軸など)や余白とをお互いに引き立たせ合い、季節感のある美しい空間を作りあげること、だといえる。この「季節感」と「引き立たせ合う」は、あらゆる日本文化に共通の美意識だと思う。だからもし、日本のことや京都のことが知りたかったら、いけ花に触れてみるというのは、悪くない入り口だ。

 

<参考/引用文献>

 

 


 

緊急事態宣言が延長されてしまいました。静かな木屋町の日々がまだ続くようなので、書き物に力を入れてみます。
今まで外国の方に頼まれて、その人に応じてなんとなく話していたものを、トピックごとにまとめていこうかと思います。「連載」とか自分で言っちゃうと、続くのか本当に心配ですが・・・笑。「おうち時間連載」ってことで。