「きれい」でない花
COLUMN Flowers & Words
「きれいですね。」花屋をしていると、一日に何度も耳にする言葉だ。用意した花を気に入っていただけてもちろん嬉しい。でも、ときどき思う。花を語る言葉は、本当にそれだけなのだろうか。二人連れの方が「きれい」「かわいい」とそればかり繰り返し言い合っているのを見ると、少し残念な気持ちになってしまうことがある。花について語る日本語は他にたくさんあるはずだし、「きれい」「かわいい」だけが花の価値ではないはずだ。実際、「きれい」とも「かわいい」とも形容しがたい花も、店にある。たとえば、檜扇。
「めずらしいお花がある」「品揃えがちょっと他のお店と違う」。ときどきそんなことを言っていただくことがあるけれど、実はうちには、そんなにめずらしい花はおいてない。ただ、いけ花に使う花、いけこみに使う花、ギフトに使う花、すべてを「季節」というくくりでおいているので、多くの人が入ったことのあるギフト用の花屋さんや、スーパーマーケットにはおいてない花があったりする。そして基本的にはブーケに入れない檜扇は、きれいでもかわいくもなく、めずらしい。
檜扇は名前の通り、大きな平たい葉が左右に広がって、扇をイメージさせる(「檜扇」は、平安貴族が持っていたヒノキで作った扇の意)。あまり知られていないけれど、アヤメの仲間だ。アヤメ科といえば、かきつばたや花菖蒲のように、水辺に咲く涼し気な紺色の花と、すらりと伸びる瑞々しい葉が特徴的だけれど、檜扇の姿はそれとはちょっと似つかない。暑さの極まる7~8月、照り付ける太陽の光の下、ひびが入りそうに水気のない大地で、小さなちいさな橙色の花を咲かせる。葉先はわずかに尖っているばかりで、かきつばたのようなしなやかさも、花菖蒲のような鋭さもない。ただ幅広で、堂々として、まるで夏の暑さに挑んでいるようにも見える。「今年の暑さもこの程度か」と。
京都でこの花の名前を知っている人が多いのは、祇園祭の花として昔からいけられてきたからである。祇園祭は京都を代表する祭りとして、もう千年以上も執り行われている。しかし都の優美さは多くの場面であまりなく、大勢の男衆で担がれる神輿や、祭りの代名詞ともいえる長刀鉾など、どちらかというと逞しく、力強い。それは祇園祭が、疫病退散を祈願する祭りであることに由来する。
日本の夏は気温だけでなく湿度も高い。その日本列島の中でもとりわけ気温も湿度も高いまちが、京都だ。蒸し暑く、インフラも未熟だった都の夏には、簡単に感染症(疫病)が蔓延した。理由もわからずどんどん広がっていく疫病を人々は疫神と恐れ、鎮まられることをただひたすらに祈った。だから神輿も山鉾も、しつこく町中を練り歩く。そんな歴史を見てみると、檜扇はまさにこのお祭りにぴったりな花だと思う。どんなに暑くても、我関せずと悠々と葉を広げる。そこには山伏のような逞しさと、貴族のような気高さが不思議と同居する。お神輿が四条通の御旅所に奉られる一週間、その傍らには必ず水盤に檜扇がいけられる。三基の豪華絢爛なお神輿と、絶えず灯るたくさんの蝋燭の火。この力強く荘厳な儀式に耐えられる花は、他にない。毎日咲いては枯れまた咲くその小さな花を、室町時代の人々はどんな気持ちで見ていたのだろう。
師匠が言った。「檜扇をいけるときは、大きな水盤にたっぷりと水をはりなさい」。いけばなでは葉を組みなおし、ねじれながらも天を仰ぐ様を凛と際立たせる。そして堂々と悠々と、まるで疫神に見せつけるみたいに、逞しい葉を広げていける。涼し気に設えることが夏らしさの表現になることが多いけれど、檜扇は違う。京都の夏の過酷さと、それでも変わらず咲く気高さを、澄んだ水の中にいけあげる。その力強さは、大地に根を下ろしているときよりも際立つ。そこに、京都の「夏」を表現する。
現代社会。夏の暑さはより厳しくなり、人々はその厳しさに抗おうと冷房の温度を下げ続ける。口を揃えて言われるのは、「季節感がなくなった」。本当にそうだろうか。なくなったのは季節なのだろうか。
「季節の一つも見つけたらんは、後世のよき賜物」。季節はただそこに在るものではない。見つけて表現して人々と共有して、はじめて「季節」になる。いけ花は、人々が忘れかけている、しかし日本文化において最も大切なこのことを、今も伝えている。「力強い」、「凛々しい」、「気高い」。「きれい」や「かわいい」じゃない花の中に、季節はちゃんとある。なくなってしまったのは、私たちの言葉ではないのだろうか。


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