大覚寺の愉しみ方

2017年11月02日

月に1度、嵐山の大覚寺へ行く。

嵯峨御流の上級のお稽古で、ちょっと遠いし面倒なのだけれど、まぁ、行かなくてはならない。行かなくてはならないのと、お花の稽古よりも、大覚寺に行くのが結構楽しみではあるので、なんとか毎月通っている。

大覚寺は、美しいお寺だと思う。所属している嵯峨御流の本拠地であるということを差し置いても(そうでなかったらもしかしたら一生行かなかったかもしれないけれど)、美しい。他府県の方や外国人の友達に、「京都のお寺でどこがおすすめ?」と聞かれたら、いつも大覚寺がいいと答える。

ただ大覚寺には、これ!というものがない。東福寺、通天橋に紅葉!南禅寺、インクラインに桜!東寺、五重塔!清水寺、舞台!というようなやつ。紅葉はちょこちょこ植えられていて、広大な敷地に現代的なものが一切入らない中で見るのはとても美しいのだけれど、「紅葉の寺」というような量ではとてもない。大沢池の周りにはちらほらと桜が植えられて、桜の時期は舟に乗せてもらえる。唐風の舟で、ほかには何も聞こえずただ舟が水のをさく音だけを聞きながら桜を愛でるのは優雅というしかないけれど、「桜の寺」というほどではぜんぜんないし、いつも運航しているわけではないので「舟の寺」というほどでもない。夏には池の隅に蓮や半夏生。しかし<以下略>。これ!という決定的な見どころがないのだ。

この間お稽古に行くと、萩のつぼみがほんの少し、膨らんでいた。次のお稽古のときはもう散った後だろうなと思っていると、案の定散っていた。蓮が枯れ、楓の緑が全体的に黄色を帯び、葉の端がほんの少し色付いていた。良い天気で暖かい日だったけれど風の中に冷たさを感じ、はっとした。これが、大覚寺の魅力だ。

交通と情報の高度な発達により、名所を「点」で体験しに行くことが可能になった。楓が赤くなったら東福寺、梅が香ったら北野天満宮、雪が降ったら金閣寺、桜が咲いたら哲学の道、平安神宮・・・。昔の人が聞いたらきっと羨むに違いない。だけど点の見どころは私たちから時の流れを感じる楽しみを奪ってしまった。

昔の人は基本的に、ずっと一か所にいた。農家も商家も暮らしと商いが同じ場所で行われていたので、基本的に同じ場所にいた。1時間も2時間も電車に乗って通勤したり、週末一泊旅行をする人はおらず農家の人は農村の景色を、商人はまちの景色を、毎日眺めていた。自分が動かなければ、過ぎていくのは時間だ。そのようにして人々は、去って行く季節を惜しみ、迎える季節を喜んだ。「名所」の「見頃」を追いかけていると、時が流れていくのを感じることができない。嫌いだった算数で、円を3つに割って「き」「は」「じ」と書いた。距離と速さと、時間。距離と速さを手に入れた現代人の目には、時間が見えなくなりつつある。

簡単に「名所」に行くことができる私たちは、本当に恵まれている。その豊かさを享受しない手はない。しかし私たち日本人は、「大覚寺」も楽しめなければならない。最高の瞬間ではなく、移ろい行く時間を。