現代の日本で「いける」ことの難しさ

2017年01月08日

2015年の12月に、国際いけ花学会の例会にて、アムステルダムでの滞在を発表させていただきました。その報告を学会誌に掲載していただけるということでメモなど見直しながらまとめてみると、改めて自分の課題が見えてきたので、ちょっとここに書いておこうとおもいます。

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芸術家向けの交換留学プログラムに参加しオランダに3カ月間滞在し、花展を開催したり花店で研修する中でオランダの花文化に触れ、翻って今後の日本の花のあり方について考察した結果を報告させていただきました。

オランダのスーパーや「フラワースタンド」という花の売店では、バラやチューリップが10~20本束になって売っています。もしくは花店でフローリストがセンスよく色々な花を組み合わせたものが、比較的均一な大きさで束にして売られていました。人々はそのように花を束で買い、束のまま花瓶に入れて家庭で花を楽しみます。特別な知識や技術がいらず、誰でも簡単に花を買うことができます。

対して日本では、いけ花を習っている人などを別にすると、なかなか気軽に花を買うことができません。それは花を「いける」というとき、場所に応じて器や花を選ぶので、そのような買い方ができず、多少なりとも花への知識があることや、鋏を使えることが求められます。私はそれを否定的なことととらえ、「日本でも海外のように気軽に花を買えるようになれば良いのに」と、華道家としての活動を続けてきました。しかしそれは、「いける」という日本独特の感覚に依るものだと気が付き、全面的に否定することは間違っているのかもしれないと思うようになりました。

2つのものがありどちらかを美しく見せたい場合、普通は美しく見せたい方を作り込みます。
しかし「いける」という場合、見せたいものには手を加えず、もう片方に手を入れることで主役の美しさを際立たせようとします。日本人にとって花は、その場所や空間を美しく見せるための手段であるという感覚が存在するのではないかと思いました。「花をいける」ということは、花自体を作品として作り込むことなのではなく、いける場所の良さを際立たせ美しく見せる、そのための花を選び、適切な大きさに切ることであると言えます。
現代では、日本でもすでに束になった花が売られたり、注文の仕方も「3000円分でおまかせ」など、オランダのように気軽に花を買える場面が増えています。しかしそれは、日本人が西洋的な花の使い方を始め、「いける」ことを忘れつつあるということなのかもしれません。
「誰でも気軽に花をいける」ことはできないのでしょうか。そのためには、華道家や花店スタッフとのコミュニケーションが不可欠です。これからの日本では、花のいけ方の探求よりも花の専門家とそうでない人のコミュニケーションのあり方を見直すことが必要であると感じます。