いけ花とは、花のいけ方の話ではない。

世界には、それぞれの土地で独特に発展した花の文化がある。料理や、お酒や、ファッションのように。「良い酒は旅をしない」というけれど、花の文化も、それぞれの土地や気候の条件のもと、それぞれに発展した。いけ花に従事していると、さもいけ花が世界で最も素晴らしい花の文化のように感じてしまうけど、客観的に見れば、世界中にたくさんある花の文化の一つにすぎない。その上でいけ花の独自性をまとめると、以下のようになる。

・日本の他の文化や芸術、習慣、その歴史と、密接に関係している点

・花が、それら日本の文化や芸術を形作った日本独自の「季節感」の象徴である点

・その結果、花だけでなく他の要素との調和と対比を図る、独特のデザインになった点

日本の文化は、お互いに関係し合いながら発展してきた。それもちょっと影響を与え合うなどというものではなく、一つが欠ければどれもが完成しないというほどに。いけ花の歴史の始まりとして語られる仏への供花は、寺社建築に合わせて発展し、仏教美術や仏教の習慣の中で一つのジャンルとして形成された。その後いけ花の舞台となった茶室や座敷には建築の段階で花を飾る場所が設けられ、その空間の制約によりスタイルが定まって行き、そこで行われる茶会や宴会によりルールが決められていった。だからいけ花の歴史を学ぶことは、必然的に日本の歴史を学ぶことになる。まずはその点が、いけ花のひとつの価値である。

そしてその空間で饗されるもののすべてが、日本の四季に基づいたものだった。料理もお菓子も、書も絵も歌も舞も、みんなその季節の表現だ。この国では神は自然の中にいるとされ、良いことも悪いことも、自然の作用はみんな神の行いによるものだと信じられた。季節は神によってもたらされ、神と共に過ぎて去って行った。だから季節を楽しむことは神様からの贈り物を楽しむことであり、客人への最高のもてなしとなった。たくさんある日本の美しい文化や習慣の中でも、とりわけ花に価値があると思うのは、他のものが季節の表現であるのに対し、花は、季節そのものだからである。暦はあるけれど、私たちにとって春とは桜が咲く時期であり、秋とは葉が美しく色付く時期である。単なる日照時間や温度の変化を、人間の目に見える形にしてくれるものが、花である。「いけ花」になってしまえば、他にたくさんある、季節を表現した日本の美しい文化の一つにすぎないけれど、そこで扱う花という存在は、日本人にとって、日本の文化の根底に流れる「季節」そのものであるということ。着物の柄にもお料理の飾りにも、絵にも和歌にも花が登場する。いけ花はその「花」に、向き合い続けてきた。これが二つ目の価値。

そしてその結果、季節を重んじ他のものとの調和と対比によって完成させるというスタンスが、見た目にも他の国の花の文化とはあまりにも違うスタイルを生み出した。「いけ花は少ししか花を使わない」、「植物の意識したいけ方をする」などという表現がよくある。その説明は間違ってはいないけれど、いけ花の本質ではぜんぜんない。床の間を例にするとわかりやすいけれど、1畳ほどの限られた場所に、掛け軸や他の飾りと調和を考えると、そうたくさんの花は使えない。たくさん使えないにもかかわらず他のものとボリュームをある程度合わせようとすると、量は少なくても存在感のあるものでなければならない。そうすると必然的に枝ぶりがおもしろものや圧倒的に季節感のあるものが選ばれる。また背景や他の飾りや器などと対比を用いることで、存在感を増すこともできる。そうして他の国の花の文化が、基本的には花の作品そのものを美しく作り上げるテクニックを確立していったのに対し、この国では、調和と対比と季節の表現への知識が蓄積されていった。

いけ花は、花のいけ方の話ではない。それはこの国の歴史の話であり、優れているかはともかくとして(もちろん私は世界で一番優れていると思うわけだけれど)、他の国にはない日本独自のデザインと美意識の結晶である。しかもそれを、感覚として「美しいでしょう?」と訴えるのではなく、その構成を言葉によって説明することができる。なぜ今この場所に、その花なのか、その器なのか。花のいけ方を学ぶことだけが、いけ花の楽しみでは決してない。だから私は、そうでないいけ花の価値や魅力を、現代の日本の人と世界の人に、伝えたい。