花と言葉

オランダにはオランダ語という言葉があるのですが、

彼らは外国人が英語でしゃべりかけてきたら、ためらわずに英語を話します。

多分、フランス語でしゃべりかけられたらフランス語を、

スペイン語でしゃべりかけられたらスペイン語を。

もちろんできる限り、ですが。

 

村上春樹さん文章で、大好きな箇所を引用させていただきます。

もし僕らのことばがウィスキーであったなら、

もちろん、これほど苦労することもなかったはずだ。

僕は黙ってグラスを差し出し、

あなたはそれを受け取って静かに喉に送り込む、

それだけですんだはずだ。

とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ。

しかし残念ながら、僕らはことばがことばであり、

ことばでしかない世界に住んでいる。

僕らはすべてのものごとを、

何かべつの素面(しらふ)のものに置き換えて語り、

その限定性の中で生きていくしかない。

でも例外的に、ほんのわずかの幸福な瞬間に、

僕らのことばはほんとうにウィスキーになることがある。

そして僕らはーー少なくとも僕はということだけどーー

いつもそのような瞬間を夢見て生きているのだ。

もし僕らのことばがウィスキーであったなら、と。

 ――『もし僕らの言葉がウイスキーであったなら』村上春樹

私はそれまで村上春樹さんはただの天才かと思ってたのですが、

この本を読んだとき、彼は、言葉の力を信じて、

自分の発した言葉が誰かの何かになることを信じて、

信じて信じて言葉を書いているのか、と、感動しました。

私はここで、感じたことや伝えたいことを、

英語という慣れないものに置き換えて過ごしています。

母国語でさえ「言葉」という限定されたものにするしかない、

見たことや感じたことや伝えたいことを、さらに限定されたよその国の言葉に変換しています。

そしてオランダの人も同じ工程を経て、

私たちは限定と限定のわずかな重なりのなかでコミュニケーションをとっています。

私は日本語という言葉が、世界で一番美しいと思っていました。

フランス人がフランス語を、イギリス人が英語のことをそう思っているように。

でも美しいことは、言葉の本当の意義ではないのだと知りました。

オランダ人は、オランダ語が世界で一番美しい言葉だと思っていません。

そして彼らと生み出す限定と限定のわずかな重なりが、

しかし本当にウイスキーになる瞬間があるのです。

美しいのは言葉それ自体ではなく、

言葉によって生み出されるその瞬間なのだと知りました。

そうか、だから私は花が好きなのか。

そして同時に「好き」という言葉がいつもしっくりこないのか。

私は一番花が好きなわけでもないし、

一番上手にいけられるわけでもないけれど、多分、

一番花を信じてる、と思います。

「私は花を信じている」なら、誰の前でも自信をもって言うことができると思います。

恐れ多いけど、村上春樹さんが、言葉の力を信じているように。

posted with amazlet at 15.05.31
村上 春樹
新潮社
売り上げランキング: 3,475

次の記事

白い壁