山科 Where I was born

生まれ育った、山科というまちが嫌いだった。

山科は、現代的にいうと、JR京都の1つ東の駅。新快速もとまるし駅周辺は総合商業施設なんかもあって飲食店や大きいスーパーもあって、ツタヤもスタバもある。京都や大阪へ通勤される方の、高級とまでは言わないかもしれないけれど、住みよい住宅地だ。歴史的にいえば東海道の53・大津宿から終点・三条大橋への通り道で、街道沿いのまちとして昔から賑わったのだろう。でも、私の生まれ育った山科は、その山科ではない。洛中から見ると、はっきり言って鳥辺山(五条通の突き当り。清水寺がありそのすぐ近くが一帯、西本願寺西大谷墓地になっており、平安時代から登場する由緒正しき高貴な葬地である)の向こうだ。駅周辺のエリアが東海道中として賑わっていた頃も、あんまり人のいない竹藪だらけの農地だったのだろうと思う。明治時代にできた住所は宇治郡山科村。昭和に入ってからの京都市編入・東山区山科村→区として独立・京都市山科区という流れの通り、交通の発達に伴って駅周辺・街道周辺から人口が拡大。その最後の方、駅からははっきり言って歩いて1時間くらいかかるけれど、自家用車が普及して東海道からではなく各自が鳥辺山を越えられるようになってから人口が増えたまちが、私の生まれ育った山科だ。

だから、幼い頃私の目に映った自分のまちの景色は、田んぼと、竹藪と、昭和に建てられたいけてない家々。「京都市生まれ」は嘘ではないけれど、京都のまちの子が見てきた景色とはかけ離れたまちで育った。山科という土地の歴史はとても長いけれど、そこは東山に隔たれた都とはまったく別のまちで、文化圏だった。私にとっての山科は、市内の隣にくっついた、文化を生まないベッドタウン。大嫌いだった。早く出て行きたくて、京都市内に憧れたし東京に憧れたし、海外に憧れた。大人になるまで、自分の生まれ育ったまちが、水と歴史に恵まれた土地なのだと気が付かなかった。

高瀬川が好きで、きれいだと思って、そこに花をいけるという活動をはじめた。たくさんの方が「いいね」と言ってくださった。応募したオランダ、アムステルダムへのアーティストインレジデンス。決定のメッセージには「アムステルダムの運河にも花をいけてほしい」とあった。まさに川がつないでくれたご縁で、念願の海外生活を経験できた。アムステルダムは、名前の通り(アムステール川のダム)運河だらけだった。まちの景色には運河が入らないことの方が少なかった。一目で気に入った。花をいけさせてもらえることが決まって、地域のボランティアの川掃除に参加した。高瀬川と違って運河は深く幅広だ。移動も掃除もボートでする。まちの人には、「水は汚いからあんまり触るな」と言われた。運河の水は基本的に海水で、たしかに緑とも灰色ともつかない濁った色をしていた。3か月いたので見慣れたのだろうけど、「汚い」とは感じなかった。運河というのはそういうもので、そんなことよりもその運河のある景色が大好きだった。その後旅行したイタリアのヴェネツィアも言わずと知れた水の都で、やっぱり一目で大好きになった。もう本当に、日本に帰りたくなかった。

4か月離れた日本に戻ったのは8月。まず驚いたのは日本の湿度だった。関空の自動扉を出た瞬間、むせた。プールサイドかと思った。あまりにも空気中の水分が多くて。くたびれ果てて多分寝た後、暗くなる前にふらふらと家の近所を歩いたのだと思う。蝉が鳴いて、暮れて行く空が朱かった。言葉を思いつかなかったのだけれど、喉の奥が詰まった。ヨーロッパの空はどこも青かった。その青を美しいと思っていた。歩いてきた、幼い頃から何度も何度も通った川沿いの狭い道。藻か何かがへばりついて汚い川だと思っていた。流れる水は、透き通っていた。この川も、別の川も、まちには何本も名前もない細い川が流れていて、田んぼの横の水路も家の前のドブの水も、みんな透き通っていた。どうして気が付かなかったのだろう。まちの中にこんなに水が流れていることに、その水がこんなにも美しいことに。水のある景色が好きだ。高瀬川の流れる木屋町通、アムステルダム、ヴェネツィア。でもそれは間違いなく、大嫌いで何にもないと思っていた、生まれ育ったまち・山科に育まれた感覚だった。

帰国して、新しい家が見つかるまでの数か月に見た、多分人生で、最後に私が過ごした山科の日々、その景色。毎日毎日、何年も何年もここにいたのに。どうして離れてからでなければ、その美しさに気が付くことができなかったんだろう。大人になってからパソコンを使ったり本を読んだりしてたくさん勉強した。花のこと、水のこと、お米のこととこの国の神様のこと。みんなみんな、このまちにあったのに。

現在の私は、西木屋町の花屋の上の階に暮らしていますが、その前、木屋町通の今より少し北の町家をお借りしていた頃は、近所のアパートに住んでいました。夏に帰国して、冬に引っ越すまで、少し山科の実家に居候させてもらっていました。その季節は、秋でした。近所にたくさんある田んぼで、夏のきらきらした光に輝いていた稲穂が、やがて光と栄養を吸いきって収穫されていく姿に目が奪われました。そんな景色、何度も何度も繰り返し、目にして大きくなったはずなのに。
偶然にも、最後に過ごした山科での日々が、この国で一番美しい季節であったことを、本当に幸運に思います。(2020年11月7日追記)