日本に仏教が伝わったときのお話
現在の日本の行事には、神道由来のものと仏教由来ものもがあります。と言われても一瞬わからないほどにどちらもが自然に私たちの生活に馴染んでいます。
さて今回はお盆ということで、日本に仏教が伝わったときのお話を。
もともと八百万の神々を信じる日本に、朝鮮半島から仏教が伝わったのは、538年(諸説ありますが)。当時の天皇・欽明天皇(きんめいてんのう)は、朝鮮半島の友好国・百済から献上された仏像、仏具、経論を大変喜びました。しかし欽明天皇は仏教を受け入れるべきか一人では決めず、臣下に相談します。蘇我稲目は、「西の諸国はみな礼拝しているので、日本も礼拝すべき」と言います。物部尾輿(もののべのおこし)と中臣鎌子(なかとみのかまこ)は「蕃神(“あだしくにのかみ”=よその神=仏)を拝めば国つ神の怒りを受ける」と反対しました。悩んだ欽明天皇は、試しに蘇我稲目に仏像と経論を与え、毎日礼拝させてみます。しかしその後疫病が蔓延した際、物部氏は蘇我氏が仏を拝んだせいだと主張し、天皇はそれを認めます。仏像は難波の堀江に流され、伽藍には火をかけられました。しかし翌年になると天皇は仏像を2体作らせ、仏教をめぐる蘇我氏と物部氏の争いは、子の代まで持ち越されます。
次の敏達天皇(びだつてんのう)の在位中に、蘇我氏は稲目から馬子へ、物部氏は尾輿から守屋へ代替わりし、対立は一層激しくなります。585年に国に疫病がはやると、廃仏派の物部守屋が仏教のせいであると主張し、天皇はこれを認め寺や仏像を焼き、尼を捕え鞭打ちにします。しかし同年中に天皇と物部守屋が疱瘡にかかり、国中に蔓延。人々は「仏像を焼いた罪」と恐れました。敏達天皇は疱瘡が原因でその年のうちに崩御します。次の用明天皇(ようめいてんのう)の時代になっても物部守屋と蘇我馬子は対立を続けますが、用明天皇は両方の立場を容認しながら政治を行います。しかし用明天皇は即位後まもなく病により崩御。その際、物部守屋は欽明天皇の子・穴穂部皇子(あなほべのみこ)を天皇に擁立しようとしますが、このはかりごとを知った蘇我馬子は皇子を暗殺、さらに物部守屋までも滅ぼそうと企て、ついに蘇我氏と物部氏は全面戦争に突入します。このときの蘇我馬子軍には厩戸皇子(うまやどのおうじ・後の聖徳太子)や穴穂部皇子(あなほべのみこ・後の崇峻天皇)も入っていました。序盤は物部氏優勢の戦でしたが、物部守屋が木から射落とされたことを機に形勢逆転。物部氏は滅ぼされ、朝廷では蘇我氏が権力をふるうようになりました。そしてついに、時は推古天皇の時代へ。
物部氏が滅ぼされ蘇我氏により擁立された穴穂部皇子が崇峻天皇(すしゅんてんのう)として即位します。しかし崇峻天皇はしばらくして蘇我馬子と対立。暗殺されてしまいます。突然の天皇崩御による混乱の中、群臣は亡き敏達天皇の皇后・額田部皇女(ぬかたべのひめみこ・後の推古天皇)を推しました。何度も断られ3度めの打診でようやく聞き入れられ、推古天皇として593年に即位します。天皇は即位後すぐに、甥の厩戸皇子を皇太子に立て、政治のすべてをまかせました。聖徳太子です。推古天皇も聖徳太子も仏教の興隆をはかり、2人の時代に、各地に寺が建てられます。一方で推古天皇は神祇も敬い、群臣に神祇を怠ることがないよう命じました。その後の日本の、仏教も神道もともに違和感なく信仰する姿勢はこのころにできるのでしょうか。
ちなみに聖徳太子が仏教を信仰した理由に、物部氏と蘇我氏の対決の際、日本で早くから信仰されていた“四天王”(仏法の守護神。東西南北の四方に住むといわれ、東の持国天,南の増長天,西の広目天,北の多聞天)に、蘇我氏の勝利を祈願したことが挙げられるそうです。聖徳太子は四天王に、「もし蘇我氏が勝利したら感謝の気持ちを込めて寺を建立する」と誓ったところ、蘇我氏は見事勝利。聖徳太子は感謝し、誓い通り摂津国に四天王寺を建立したのでした。