季節という贈り物

私は、花を生業としている。もちろん花が好きだし、花をいけたり束ねたりして喜んでもらえるととてもうれしい。でも本当に私が心を掴まれているのは多分、季節、なのだと思う。季節というものの一番近くにいられるから、花を選んだ。最近そういう風に思う。

だとしたら、季節って何なのだろう。私たちはみんな、春とか夏とか秋とか冬っていうものが、世の中に存在しているのだと思っている。カレンダーを見て3月・4月・5月が春?立春から穀雨までが春?本当には、そんな境界は存在しない。地球が自転して太陽からの距離が変わって、日照時間や温度が変わる。そのことによってある植物が花を咲かせたり、葉に色を付けたり、枯れたり散ったりする、ただそれだけのこと。手つかずの自然には「春」も「夏」もない。そこに人間がやってきて、「季節」を作り上げる。私たちが春と呼んでいる季節。寒さの極限が陽に転じ、日照時間と気温が上がって行き、空気中に水分が増えて行く。そういう気候の下、咲く花はたくさんある。でも日本人に春の花を聞いてみれば、ほとんどの場合1つの花の名前をこたえると思う。桜。少しずつ膨らんでいく桜のつぼみに春を感じ、散って行く花びらに心をいため、そういう感情のいちいちを日常の何気ない会話にはさんだり、SNSに写真をアップしたりする。みんながそうする。他に花はたくさん咲くのに。そこに日本人共通の「春」が生まれるのだ。現実にある状態の中から、「これは春だよね」というものをとりあげて確認し合う。だから季節というのは自然や気候のことではなくて、私たちの心の中にしかないものなのだ。

地球上にはたくさんの気候が存在する。それ以上に、文化や民族によってたくさんの季節が存在する。「日本は四季のある国だ」と高らかに言う人がいるけれど、世界には四季のある国がたくさんあるし、二季の国もあれば六季の地域もある。もし季節が単に気候の話だとすれば、日本は世界中にたくさん存在する四季のある国の一つにすぎない。でも私は、日本を世界の他の国と区別するときに、「四季のある国」であるという説明は間違っていないと思う。正確にいうと、「季節に囚われた国」か。季節とともに暮らし、旬の食べ物や花を見つけては愛で、季節の到来を祝い、去って行く季節に心を痛めた。京都はその国で、ずっと都だったまちだ。着物、懐石、舞、祭り、町家、茶の湯、もちろんいけ花も。京都らしいものは、みんな季節と密接に関係している。だから私たちは、どこの人たちよりも、季節を大切にしなければならない。

季節を大切にするということ。それは、先人から受け継いだ季節を大切にするということ。そしてもうひとつは、新しい季節を見つけるということ。松尾芭蕉が残した言葉に、大好きなものがある。「季節のひとつも見つけたらんは、後世のよき賜物」。私たちが受け取った季節の他に、途中で消えてしまった“季節”がたくさんあるはずだ。受け継ぐだけでは、なくなってしまう。見つけて、楽しんで、たくさんの季節を、未来の京都や日本の人たちに贈ることができれば、と思う。


 

ハロウィンナイトのしめに、そんなお話を、片肌脱いで悪魔の槍を持って台の上にのっかって、お話させていただきました。

高瀬川ではじめてお花をいけさせてもらったのが、2014年の秋。2016年から“京都木屋町花いけ部”を始めて、自分だけじゃなくてたくさんの人に、木屋町・高瀬川にお花をいけてもらいはじめた。それまではこのウェブサイトの名前でしかなかった“西村花店”が、木屋町通に面した町家で実現したのが2017年。そして今年、2019年。私が木屋町に来てから、ちょうど5年が経った秋に開催したのが、京都木屋町花いけ部~ハロウィンナイト~ということになった。
高瀬川会議は立誠自治連合会の下部組織で、立誠自治連合会は木屋町通の居酒屋やキャバクラへの客引き行為を否定する。その気持ちはよくわかる。そもそも条例違反だし。でも毎日夜11時まで木屋町の音を聞いていると、キャッチに出ている人たちの会話なんかも耳に入って、がんばっている人もいればがんばっていない人もいる。駅までの道を急ぐ人、酔っぱらって騒ぎながら歩いて行く人。いろいろな人が毎日木屋町にやってくる。みんなそれぞれの立場や正義や、仕事や楽しみがある。
去年のハロウィンは、曜日が良かったせいか、仮装をして遊びに来ている人たちが結構いた。キャッチの人たちもいろいろと仮装をしたりしていた。ふぅん、と思った。私は昔からハロウィンが好きだ(さんざんしゃべったり書いたりしたので、ここでは割愛/▶100年後の歳時記)。でもどうやって楽しんでいいかわからなくて、渋谷のハロウィンがワイドショーで批判されているのを見て、どうしたらいいのかなと思っていた。当然だと呆れる気持ちと、ハロウィンが嫌われてしまう残念な気持ち。だけど正直なことを言うと、こんなにもたくさんの若い人たちが(そうは思ってないかもしれないけれど)季節行事に集まってくるなんて、日本はまだ捨てたものじゃないかもしれない、と思った。渋谷のハロウィンに、改善の余地はないのだろうか。大きな問題は、仮装して集まっている人たちの「自分たちさえ楽しければ良い」という発想。もう一つは、そこに季節を楽しむ精神がないこと、じゃないかと思った。
「季節をみんなで楽しみましょう」。花いけ部のときに毎回お話する。仮装は、度を過ぎた大騒ぎをしなければ、していない人も見て楽しめる。それに、“みんな”一緒になる。批判する人もしない人もされる人も。“みんな”が楽しめることでなければ、新しい歳時記になんてなり得ない。みんながみんなの事情を認め合えなければ、良いまちになんてなり得ない。
花いけ部~ハロウィンナイト~は、私が木屋町で過ごした5年の、ひとつの結論なのかもしれない。キャッチコピー「季節をみんなで楽しむこと」は、私が花を続ける理由であり、木屋町にいるいる意味、なのかもしれない。

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