山との距離

打ち合わせなどで、富山県の黒部市に行かせていただきました。
私は見上げなければならないほどの山を、今までの人生で見たことがありませんでした。


ここにはちゃんと家があって店があってまちがあります。
あまりにも早く閉まる店は少し不便だけれど、そこにはごく普通の人々の暮らしがあります。
そしてその、山を前にあまりにも小さな塊でしかないまちは、
彼らが山を切り開いた上に暮らしているのだということを物語ります。
「観光」とか「自然」という言葉が軽く聞こえるような、日本人が恐れていた頃の山。
人間に、「その罪を忘れるな」とそびえ立っているいるように見えます。


開通したばかりの新幹線は清潔で何の匂いもしなくて、
まるでビジネスホテルのようでした。
できたばかりの駅もコンクリートで近代的で、
私はどこに来てしまったのかと思いました。

そこから乗った地方鉄道は打って変わってぼろぼろの中古電車二両編成です。
富山県は、お米の生産高では全国で1位か2位らしいのですが、
葉もの(野菜)の生産高は最下位かそれに限りなく近いのだと教えていただきました。
葉ものを作らないということは、ビニールハウスがありません。
窓の向こうには果てしなく続く浅い黄緑の稲、浮かぶ瓦屋根、その向こうにそびえ立つ、
深い深い緑をまとった高すぎる山。

作って以来敷き直したことがないと思われるような線路は、
信じられない低速で走っているにも関わらずがたがたに揺れ、
トンネルとも溝ともつかない半地下を、真横に生える木々をかき分けながら進みます。


その電車で前へ進むとき、
ここには線路なんて「なかった」ことがありありと感じられました。
そこにはただ山があって、何十年とある木とか草が固い大地に根を下ろし、
人々は爪から血を流しながらその大地を削り道を敷き、
まちを作ったこということを、思わずにはいられませんでした。


本当はどのまちだってそうなのに。
ロンドンも東京ももともとなくて、誰かが自然を切り開き、
その切り開いた山や木とどんな風に距離をとるかがそのまちの色のはずなのに。

そのことが多くのまちから脱臭されていて、
それはつまりそのまちの色を忘れつつあるということで、
それはもう仕方がないのだけれどだからこそこんな風に、
まちを作った爪痕が未だに残っているような土地は、すごい、と思うのです。
すごいし、たとえば若い人がその爪痕を見て、
自分の生まれた山の香りを脱臭されたまちへ帰ることは、
とても意味があると思うのです。
見るべき場所がないことなんてない、と思うのです。

 

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