西村花店と菊の花 

西村花店のマークは、菊の花です。

「一番好きな花なんですか?」と言われるとちょっと困るのだけれど(「一番好きな花」というのが昔からなかなか決められない)、特別な花だと思っている。私にとって特別な花だけれど、特別になったのは、この国の歴史と未来にとって特別な花だということに気が付いたから。

初めて働いた花屋さんは、実家の近所にある、どちらかと言うと昔ながらのお花屋さん。お洒落なギフトではなくて、お仏花やお墓の花がたくさん売れるようなお店だった。私がそこで働かせていただいていたのは2008~2010年頃で、ピンポン菊辺りが定番になりつつあったけれど、それでも菊は「お供えのお花」というイメージをもつ人が多かった。ギフトの注文ももちろんあって、そこにピンポン菊やスプレー菊を入れようとすると、「お供えみたいだからやめて!」と言われることはめずらしくなかった。そのとき私はまだハタチくらいで、菊の歴史も日本の歴史も何も知らなかったけれど、そのたびにいつも少し残念な気持ちになった。確かにお供えによく使われてるけれど、かわいい菊はかわいいじゃん!ていうかそもそも日本の国花なんじゃないの?それを御祝に使えないってどういうこと?イギリス人がお祝いにバラいれないでって言うか?ていうか、そもそもお供えの花って誰が決めたんだ??というようなことを、疑問に感じるようになった。だけどその初めてのお花屋さんにいる間に、その答えはわからなかった。

その次に働いたお花屋さんは、京都ではいわゆる老舗で大手のお花屋さんで、ショップもあって、ホテルでのウエディングもあってお葬式もスーパーの花も手掛けていた。3年間働かせていただいて私は主にショップとウエディングにいたのだけれど、人手が足りなければお葬式に駆り出されることもスーパーの花を包むこともあった。そこで菊とお葬式の関係を、まざまざと体験することになる。

「葬式の花は高い」。多くの人がそう思われるのではないかと思う。葬儀屋さんが儲けている?花屋が儲けている?そういう面もなくはないのかもしれないけれど、ホールでお葬式を開くということは、大抵お花も供花もたくさんで、その静かな会場の裏で、その規模が大きければ大きいほど、莫大な数のスタッフがバッタバッタと走り回って必死で働いている。結婚式も同じじゃない?確かにそうだ。結婚式の裏でも、たくさんのスタッフがホテルのバックヤードを必死で行き来している。だけど、結婚式とお葬式には大きな違いがある。それは、「お葬式は計画できない」ということである。大規模で設置に撤収に走り回らなければならない結婚式でも、その規模も日程も半年や一年前からわかっている。使うお花も必要なスタッフも、計画して仕入れて配置する。では、お葬式(お通夜)は?いつ起こるのか、どれほどの規模で行われるのか?その日の昼過ぎまで、誰にもわからないのである。にもかかわらず結婚式と同じように、絶対に失敗は許されない。時間に間に合いませんでいた、花が足りませんでした、スタッフが足りませんでした。そんなことはあってはならない。恐ろしい事業だと思った。規模がわからないのに、受注してから仕入れることができないのである。その花屋さんの工場にはストッカー(生花用の大きな冷蔵庫)が確か2機あって、いつでも大量に、花が詰まっていた。菊をはじめ、ユリ、アルストロメリア、トルコ桔梗、胡蝶蘭。白いこと、そしてストッカーで長く保存できることが、お葬式の花の第一の条件なのだった。ホールでの大規模なお葬式。これはきっと、菊をお供えの花にした大きなキッカケなのだろうなと思った。中でも菊がとりわけ重宝されるのは、一年を通して安定的に大量に供給されるという理由があった。菊はもともと秋の花だ。秋の花というのは、日が短くなると咲く。その習性を利用したのが「電照菊」で、ハウスのライトを調整することで、季節と関係なく一年中菊を咲かせることができるようになった。ストッカーには、電照菊と書かれた白い菊の入った箱が山積みにされていた。

花店での修行を生業としながらいけ花の師匠のもとに通う、というのが、私の20代の生活だった。花店での葬儀花の手伝いは、菊の花に関して大きな発見をもたらしてくれたけれど、いけ花が教えてくれたこともあった。いけ花では菊が頻出する。秋の花材として登場することが一番多いけれど、お正月など華やかな場面にも使うし、婚礼にもうってつけの花だと教わった。花店でのお供え一点張りとはまるで違う扱われ方。菊は最高に秋らしい花であり、格の高い、御祝にもお供えにも使える花。そしてこちらが、この国の、もともとの菊のイメージだった。

仏様にお供えする花は、格の高いものでなければならない。お葬式には誰が来るかわからないから、格の高い花でなければならない。長持ちで白くても、洋種で歴史も格もない、アルストロメリアやトルコ桔梗だけでは、お葬式の花になり得ない。高度経済成長期の葬儀の大規模化と、生産技術の躍進。菊の流通はきっと増えたし、花の関係者はきっと喜んだ。その裏で、人々の中ではお葬式に行けば菊があるというイメージが固定化された。幸運と不運が抱き合いながら崖を転がり落ちて行くみたいに、誰もその勢いを止めることはできなかった。

どちらにしろ過ぎたことをあれこれ言うことはできないけれど、私は、菊の花が大規模葬儀に使われたのは間違いではなかったと思う。問題は、菊=お供えの花という、間違った公式だ。菊はお供えにも使われるけれど、「お供えの花」ではない。菊=この国で最高に格の高い花、である。だからお供えにも使い得る。私が西村花店として独立した2017年には、そのイメージはほとんどなくなっていた。「お供えみたいだからやめて」と言われたのは本当に数えるほどで、ほとんどの方が、お店ようにもギフト用にも、自宅用にも、お好きな色や形の菊を買ってくださる。葬儀自体がどんどん縮小していき、ホールでも最近では家族葬が当たり前。家族葬だと、故人の好きだった色や花などが好まれる場合もあり、とくに若い人にはお供えというイメージが浸透していない。お供えの花ではなくなりつつあるのだけれど、格の高い花だとも思われていない、秋の花だとも。ただたくさんある、かわいい花のひとつになってしまいつつあるように思う。「菊=お供えの花」。その間違った短絡的な公式は、菊の本当のストーリーごと消えようとしている。間違ったイメージが消えようとしているのは良いことかもしれないけれど、「かわいい」だけでは、流行りとともにまた人々に葬られてしまう。

日本人は、花の見た目以上に、その背景や歴史を愛でてきた。どこに咲くのかどんな風に咲くのか、どんな風に散るのか。和歌の中でどんな風に詠まれたか、昔の人たちにはどんな風に愛されたか。私は菊だけでなく、どんな花も、その物語ごと愛でたい。日本の美しい文化や風習のほとんどは、日本の季節と気候に基づいて生まれた。花が季節の象徴であるとすれば、花との接し方は暮らし方の一部である。どんなに社会が変わって気候が変わっても、日本ならではの暮らしや美意識を受け継ぎたい。つまらない固定概念や見た目の美しさだけに囚われるのではなくて、その花が、長い歴史の中で背負ってきた物語をいけ、それをもって人をもてなす。その挑戦の中にきっと、これからの暮らし方と、未来の伝統があるって信じて。

西村花店のロゴマークは、菊の花だ。この国で最高に格の高い花で、この国で最高に美しい、秋という季節に咲く花。そして私に、この国の花の在り方を教えてくれた花。